新田義貞は河内源氏の流れを汲む上野国(群馬県)の豪族です。1333年、後醍醐天皇の呼びかけに応じ挙兵。稲村ヶ崎の徒渉伝説に象徴される猛攻で鎌倉を攻略し、北条氏を滅ぼした最大の功労者となりました。建武の新政後は足利尊氏と対立し、南朝側の総大将として戦いましたが、越前国藤島の戦いで戦死。忠義を貫いた悲劇の武将として知られます。
🔶新田義貞ゆかりの地
洲崎古戦場碑
鎌倉攻めの際、軍勢を三方に分けた新田軍の一翼が激突した激戦地。十六代執権・赤橋(北条)守時が迎え撃ち、『太平記』では一日一夜に65回も合戦が繰り返されたと記されています。守時ら90余名が自刃した山崎合戦の勝利により、新田軍は鎌倉内部へ進撃しました。
泣塔
洲崎古戦場近くに建つ宝篋印塔。この地での戦死者を弔うために建てられたと伝わります。一時、青蓮寺へ移したところ、夜な夜なすすり泣く声が聞こえたため元の場所に戻されたという伝説からその名がつきました。
等覚寺
湘南深沢駅近くに位置する寺院。洲崎合戦での戦死者を供養するために建立されたと伝えられ、境内には今も当時の武士たちを供養する無縁塔が残されています。
仮粧坂
鎌倉七口の一つ。新田義貞が鎌倉攻めの際に、仮粧坂に軍の主力を向けましたが、幕府軍の抵抗は極めて激しく、新田軍は4日間もの間、ここを突破することができませんでした。
極楽寺切通
京へと続く西の玄関口。新田義貞自ら2万騎を率いて攻め寄せましたが、北条軍は海上に船を浮かべて矢を放つなど鉄壁の布陣を敷き、義貞はここからの侵入を断念せざるを得ませんでした。
十一人塚
極楽寺坂攻略を狙った新田軍の浜手の大将大舘宗氏以下11人が幕府軍の奇襲を受けて戦死した場所です。彼らの霊を慰めるために十一面観音像が建てられたのが名の由来です。
稲村ヶ崎古戦場跡(新田義貞徒渉伝説地の碑)
極楽寺坂の突破が困難と見た義貞が、海岸で黄金の太刀を龍神に捧げると、潮が引いて道が現れたという伝説の地です。新田軍はこの海路から一気に鎌倉市街へ突入しました。
仏法寺跡
霊山と呼ばれる山稜部にある極楽寺の支院跡。新田軍と鎌倉方との争奪戦が鎌倉幕府の滅亡を決したとされます。
小動神社
新田義貞が鎌倉攻めの際、戦勝を祈願した神社。成就後に太刀と黄金を寄進し、社殿を再興したと伝えられています。
浄泉寺
かつて小動神社の別当寺であった真言宗の古刹。義貞が奉納した刀剣を一時保管していたという伝説が残ります。
乱橋
材木座にある鎌倉十橋の一つ。新田軍の猛攻により、北条軍の軍列が乱れ始めた場所であることからその名がついたという説があります。
東勝寺跡・腹切やぐら
追い詰められた北条高時ら一族が最期を遂げた、幕府終焉の地。義貞の勝利と、140年続いた鎌倉時代の幕引きがこの場所で重なりました。
貝吹地蔵
自刃した北条高時の首を新田軍から守ろうとした家臣に対し、法螺貝を吹いて逃げ道を案内したという伝説を持つ地蔵です。
九品寺
幕府滅亡後、新田義貞が北条方の戦死者を弔うために、鎌倉攻めの折の本陣跡に自ら建立した寺院です。本堂の扁額は義貞の直筆と伝わります。
