鎌倉七口

鎌倉とその外を結ぶ切通のうち主なものを「鎌倉七口(かまくらななくち)」または「鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)」と呼びます。

名越切通(なごえきりどおし)
鎌倉から三浦半島方面へと通じ、東京湾を渡ってその先の安房に渡る交通路として開削された切通です。

朝夷奈切通(あさいなきりどおし)
鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶ切通のため「六浦口」とも呼ばれます。和田義盛の三男で豪傑だった朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説からこの名が付いたとされますが、『吾妻鏡』には1240年に造営が決定され、その翌年に三代執権北条泰時が監督して工事したと記されています。

巨福呂坂(こぶくろざか)
鶴岡八幡宮寺脇から西側の尾根を越えて建長寺の前へいたる道でした。この道は、現在は通り抜け出来ませんが、江戸時代の庚申塔や道祖神が残っています。三代執権北条泰時が通行しやすくするように道の造営を命じたと『吾妻鏡』に記されています。

亀ヶ谷坂(かめがやつざか)
扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道でその先の武蔵に通じる要路でした。その名の由来には、亀もひっくり返るほどの急勾配の坂だったから、などの説が伝えられる。

仮粧坂(けわいざか)
扇ガ谷、佐助から梶原、藤沢方面に抜け、その先は武蔵方面へつながる道です。1333年、新田義貞が幕府軍を破った鎌倉攻めの際に軍の主力を向けたので激戦地となり、それ以降も様々な戦いの舞台となりました。

大仏切通(だいぶつきりどおし)
長谷から常盤を経て藤沢方面に抜ける道です。道の両側に高い絶壁のような苔むした崖が切り立っている険しい山道で、江戸時代から明治時代にかけて何度か整備されてきました。

極楽寺切通(ごくらくじきりどおし)
坂ノ下から極楽寺、七里ガ浜、片瀬方面へ抜ける道となっており、鎌倉・京都往還の重要な出入口でした。極楽寺の開山忍性によって切り開かれたと伝えられています。

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