🔶鎌倉殿の13人とは?
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、鎌倉幕府を支えた13人の有力御家人たちの物語です。源頼朝の死後、息子頼家が鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時をはじめとする13人の重臣たちでした。彼らは9人の東国武士と4人の文筆吏僚で構成されていました。
🔶鎌倉殿の13人ゆかりの地
安達盛長
無量寿院跡
安達盛長は、伊豆で流人生活を送っていた源頼朝を側近として支え、幕府成立後も頼朝に近い存在でした。
無量寿院は安達氏の菩提寺で、現在、鎌倉歴史文化交流館が建つ無量寺谷にあったと考えられています。
梶原景時
御霊神社(梶原)
梶原景時は、鎌倉の梶原を本拠とした武士で、石橋山の合戦で頼朝の危機を救い、以来頼朝の信頼を得て活躍します。
梶原の御霊神社は、1190年の創建と伝えられています。鎌倉党の祖・鎌倉権五郎景正公を祀ります。
梶原大刀洗水
梶原大刀洗水は、朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つです。梶原景時が上総介広常を討った後、この湧き水で太刀の血のりを洗い流したという伝説が残されています。
建長寺
建長寺では、7月15日に梶原景時の亡霊を弔うため「三門梶原施餓鬼会」が行われます。
比企能員
妙本寺
比企能員は源頼朝の側近で、比企一族は源頼家の外戚として勢力を持ちました。
妙本寺がある比企谷は、比企一族の屋敷跡とされます。境内には源頼家の息子・一幡の袖塚や比企一族の墓と伝えられる石塔など、一族の悲劇を伝える伝承が残ります。比企能員の子・能本が後に日蓮の弟子となり、日蓮と一族のために堂を建てたのが妙本寺の始まりといわれています。
三浦義澄
来迎寺(材木座)
三浦義澄は、相模国の在庁官人で、三浦郡を本拠とした武士です。
材木座の来迎寺は、源頼朝が三浦義澄の父、三浦大介義明の冥福を祈って建立した能蔵寺があった場所にあります。本尊阿弥陀三尊像は三浦義明の守護仏と伝わり、敷地内には三浦一族や家臣の墓と伝わる五輪塔があります。
和田義盛
和田塚
和田義盛は、源頼朝の挙兵に参加し、のちに御家人の統制を行う侍所別当となりました。
和田塚は、北条義時との武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として、伝承されています。和田塚に近い由比ガ浜一帯は、和田合戦の主戦場となった場所です。明治時代の道路工事で埴輪や多くの人骨が掘り出されました。
大江広元
大江広元の墓
大江広元は、公文所や政所の別当(長官)となるなど源頼朝の右腕として幕府を支えました。
大江広元の墓は、法華堂跡、源頼朝墓の東側の毛利氏によって整備された三つあるやぐらの中央だと伝えられています。
大江稲荷社
大江広元を祀る社。石段、赤い鳥居、参道の奥に小さな社があります。かつて十二所(明石橋付近)に屋敷を構えていたといわれ、明王院の裏山に大江広元の墓と伝わる五層の石塔があります。
二階堂行政
永福寺跡
二階堂行政は、公文所の設置や寺社の差配、幕府の財政などの業務に携わりました。
外観が二階建ての堂にみえることから二階堂と呼ばれる堂が建つ永福寺の近くに邸宅を構えていたことから、二階堂氏を名乗りました。今も史跡永福寺跡の辺りには、二階堂という町名が残っています。
